久賀島観光マップ

久賀島の全景

 福江島から北東に約2㎞、馬蹄形をした周囲約52㎞の五島列島で3番目の久賀島。ここには、国が選定する文化財の1種「重要文化的景観」に指定された豊かな自然や生活文化、世界遺産の久賀島集落などさまざまな見どころがあります。


世界遺産の島 久賀島



浜脇教会

 久賀島に最初の教会を建てたのは、田ノ浦生まれの大工、平山亀吉で長崎の大浦天主堂を見に行き、外観と内部を図面に書き取って帰ってきた。玉の浦の教会建築を手伝った後、明治14(1881)年に棟梁として浜脇教会を建てたと言われている。

 現在の教会は、昭和6(1931)年に竣工した鉄筋コンクリート造りの教会で、五島最初の近代建築の教会とされている。

 現建物は平成30(2018)年に再改修されたものです。

                                  浜脇教会


牢屋の窄殉教地

   人の上に人の重なる狭い仮牢に

   おしこめられたまま

   飢えと拷問が

   幾月も続いた

   猿浦の入江を汚物と死臭で染め

   空渡る鳥の声にもおののく夜のながさ

   ⋯⋯(下略)⋯⋯

(中村不二雄「おぼれ谷」)

 

      信仰の碑         慶応元(1965)年大浦天主堂のプチジャン神父に浦上の潜伏キリシタンが信仰を告白した。これを機に五島の潜伏キリシタンたちも信仰を明らかにした。

 江戸幕府と同様キリスト教を禁止した明治政府は、五榜の掲示により切支丹宗門禁制を布告、浦上のキリシタンの弾圧(浦上4番崩れ)が始まり、明治元(1868)年には「五島崩れ(牢屋の窄弾圧事件)」と呼ばれる厳しい弾圧が行われた。それでも、彼らは、自分たちの信じた信仰を守り抜いて迫害を乗り越えた。

 信者たちは、入牢からおよそ8か月で解放されたが、牢内での死亡者39名、出牢後死亡した者3名、合わせて42名の犠牲者を出した。主だった9名はそのまま残され、2年後に解放された。

 牢から出されたが、食物がない、山に入って野老の根や葛の根をひき、臼で挽くなど種々工夫して生命をつないだ。

 

 野老

 

 迫害経験者の最後の人、野濱紋之助氏(78歳ー昭和10年)の話

 

 11月頃だった。カトクも何も捨てて死する覚悟で連れて行かれた。頭立つ者が10人ばかり福江へ連れて行かれ、女や子供は本久賀で責められた。ヘコ一つで髪も結はで、両手を引っつけ足を縛り、12月と云うに、四斗樽2つ置いて代りがわり水を飲ます。飲まぬとしても口に入るわけでチャウマンのようになって人事不省になると解いて水を出した。そうして「止めるか止めんか」と云う。サンギ責めは、三角の棒を膝の間にさし、膝の上には石をあげる。「止めん」と云えば石を上へ上へと積む。青竹を4つに割って打つ。三角の棒が一寸も膝に食い込むと「止めぬ」と云っても解く。

 手に椿油を入れて燠を入れた事もある。

 山の上に棒を立てて裸にしてくくりつける。雪の降る12月だ。オヒコミと云って雪の降る最中に、海の中へ口元まで深く追い込む日もあった。

五島雑記 瀬川 清子  抜粋 


旧五輪教会堂

 旧五輪教会堂は、久賀島で初めて建てられた初代浜脇教会堂が五輪に移築されたものである。

 旧浜脇教会堂は明治14(1881)年に造られたもので、移築の際に、特別な改修をしていないことから、浜脇教会の創建当時の姿を残しており、長崎県下に現存する木造教会としては、大浦天主堂についで古く、国指定の重要文化財として指定されている。

 建物は、外観は日本家屋で質素であるが、内部は、三廊式の板張りコウモリ式天井、内壁は漆喰壁、下は縦板張りになっていて、厳粛な教会の空間を作り上げている。 

       旧五輪教会堂



おすすめスポット


細石流教会跡

 細石流教会は、大正10(1921)年11月鉄川与助によって建てられた。

 教会は昭和44(1969)年、信者の人口が少なくなり、閉じられ、その後、台風などの影響で倒れ、バラバラになって、崩れた石垣の間に、屋根瓦と骨組みの木材が残るだけになっている。

  明治の初め、教会が建つ前の場所は、久賀島のキリシタンたちが秘かに集まり、教理を学んでいた。

 そこに役人が踏み込み、信者たちは捕まり、連れ出されて牢屋の窄事件へとつながっていったとも言われている。



高麗地蔵

     高麗地蔵は、蕨の大師堂横に祀られている地蔵で、次のような言い伝えが残っている。昔、久賀島の北60キロの所に高麗島という島があった。その島に一人の信仰の厚い男がいて、一体の地蔵へのお参りを欠かしたことがなかった。ある夜、夢の中でこの地蔵が男に「自分の顔色が変わった時は一大事変が起こる故、その時は島を逃れよ」と告げた。男はすっかり驚き皆にふれまわったが、島民の中には相手にせぬ者もいた。ある時、心善からぬ者がひそかにその地蔵の顔を赤く塗りつぶしてしまった。正直者の男はこれを見て恐れおののき、仲間と共に船で島を逃れた。しばらくして島を振り返ると、島の姿はなかった。一行は波のまにまに漂い、やがて久賀島の大野浜にたどり着いたという。当初宮田という所に祀られていた地蔵はやがて現在の場所に移され、蕨の人達に大切に祀られている。


栄健寺(恵剣寺)

 栄健寺は、延宝3(1657)年の記録でその名を確認でき、久賀きっての古刹である。寛政5(1793)年火災によりすべてが焼失、そののち再建された。

 お堂の裏手に累代の住職の墓碑にまじって唯一御影石の墓石がある。

 このすでに碑面の定かでない石塔が赤穂浪士の一人寺坂吉右衛門の墓だと言い伝えられている。

 寺は江戸の泉岳寺の僧になっていた弟赤坂瑞天が元禄時代の初めの頃創建したものである。


岩屋観音

 亀河原山中の岩窟の中に、観音像が安置され、古くから崇拝されてきた。この観音の発見には2説あり、田ノ浦の者の不思議な鐘の音を聴き岩窟を発見、猪之木の者が、夜、不思議な灯りがともっていたため岩窟を発見し、祀ったという2説である。両集落により所有権争いをしていたが、現在は猪之木の町民によって奉仕されている。



猿田彦神社

   五島藩においても毎年絵踏みが行われ、久賀島ては福江から役人が来て、市小木の猿田彦神社で絵踏みが行われた。

 キリシタン達は踏絵の端に爪先だけをつけて、足の裏が絵にかからないように用心しながら踏んだ真似をすると、厳しく監視していた役人から見付けられ、キリシタンの足を踏絵にすりつけた。絵を踏んだキリシタンは良心の呵責にかられ、夜は涙を流し、神に赦しを求めるのであった。


折紙展望台

 久賀島の北東部にある展望台で、島民によって造られた2ヵ所のあずまやからは勇壮で久賀島の山々、青い海が一望できます。大昔、ここに神が降りたという伝説があり、「折紙」という名前の由来になっています。



もっと久賀島


久賀殿の墓

  もと田の浦小学校の近くの山の中に、一つの変わった墓碑がある。この墓碑は、久賀島の島主で あった久賀殿の墓で、地元の人は殿墓と呼んでいる。この久賀殿は熱心にキリスト教を信望し、ために福江の五島氏に滅ぼされたと記されている。

 田の浦には殿墓のほか、殿川と呼ばれる湧き水があり、殿屋敷のあとには現在、観音像が建てられている。

   現在、小学校には松井守男画伯のアトリエがあり、作品の一部を常設展示している。


松井守男画伯アトリエ


 松井守男画伯の略歴

 1942年愛知県豊橋生まれ、武蔵野美大を卒業後、フランスに渡り、ピカソとの出会いにより大きな影響を受ける。1997年よりフランス・コルシカ島に拠点を置く。2000年、フランス政府より芸術文化勲章、2003年、ナポレオンによって制定されたフランスの最高勲章「レジオン・ドヌール勲章」を受賞。

 現在、アトリエのある旧田の浦小学校の廊下の一部をギャラリーとして公開、縦2m、横10mの大作と小作品を展示している。

 見学者は事前予約必要。

 ℡:0959-77-2131(久賀島やぶ椿会)携帯:090-9598-1107坂谷

 


アフリカミュージアム

 現在、久賀診療所で働く黒須良玄医師が、25年にわたる海外勤務の際に収集したアフリカの彫刻やマスクなど約100点を展示中。神秘的で迫力ある、そしてユーモラスで創造性に満ちた芸術作品の数々を間近で見ることができる。

 ◇ 入館無料

 ◇ 開館時間:9時~15時

 ◇ 休館日:不定

 



禅海寺

 慶安3(1650)年、福江大円寺九世普山林周大和尚が創立し、本尊は立像阿弥陀如来、脇仏は観世音菩薩、勢至菩薩の曹洞宗寺院である。明治13(1880)年に本堂を再建、また、現在の本堂は、平成4(1992)年に檀信徒の支援協力により新たに再建された。本堂天井には花鳥画80枚の天井絵があり、明治13年に福江の絵師・藤山才蔵が描いたものとされる。


折紙神社

 創建日は定かでないが、慶長元(1596)年伊勢の国より天照大神の神霊である紙札を勧請したという。かつては宮鼻の内側にあったが、明治24年に現在地へ移転された。神殿は熱田神宮と同型で、用材は尾張(愛知県)から搬入し、尾張の大工が建築したもので、様式は熱田神宮の神殿そのもの。また、同境内には海神社と稲荷神社が祀られている。




蕨の六地蔵

 蕨の墓地の一角に六体の地蔵が並んでいる。そのうちの左端の地蔵は右の手に十字架を掲げている。果して何を意味するのか?



細石流の或る小屋

 細石流の旧久賀小学校分校の近くの或る小屋に不思議な像が祀られている。その像の一つがマリア観音ではないか?と思われるものがある。


久賀島へのアクセス

 福江港から、シーガルで田ノ浦へ約20分。または奥浦から、フェリー久賀で19分で着く。

 木口汽船 ☎ 0959-73-0003

連絡船時刻表


行き

 博多港を23時45分、野母商船の太古丸は福江に向け出航する。途中、宇久、小値賀、青方の港に寄港、青方の港を過ぎ、若松島付近に至る頃、空が白々と開けてくる。次の港の奈留島を出て40分の8時15分に最終目的地の福江に到着する。福江からは木口汽船の9時10分発のシ-ガルに乗り換え、20分で久賀島の田ノ浦の港に到着する。長崎からはジェットフォイルで1時間半、フェリーで約3時間で福江に着く。ジェットフォイルを利用して9時10分の久賀島行きに乗るためには長崎を7時40分に乗る必要がある。9時05分に福江に着き、向かい側が久賀行きである。

 フェリー太古   野母商船 ℡:0570-01-0510 

 ジェットフォイル 九州商船 ℡:095-822-9153


島内交通

 久賀島レンタカー・久賀タクシー

 ℡:0959-77-2008(住所:五島市久賀町217-23)


宿泊

 民宿 深浦荘

 ℡:0959-77-2366(住所:五島市猪之木町290-5)

 ◇料金:1泊2食7,560円

     素泊まり5,400円(税込み)

 民泊体験

 ◇申し込み 五島市観光協会 ℡0959-72-2963

 ◇1泊2食ー1名8,640円/2名以上ー1人あたり7,560円(税込み)


食事

 久賀島観光交流拠点センター(旧藤原邸)

 

 世界文化遺産と久賀島の文化的景観に関する情報発信拠点施設、飲食・休憩スペースを設けている。

 昼食は3日前までに要予約(1,000円~)

 ℡:0959-77-2175

 ◇開館時間9:00~17:00

 ◇休館日:毎週月曜日(7月~10月は無休)

     年末年始(12/29~1/3) 

 

 久賀島つばきの里

 

 田ノ浦港からすぐの場所にある施設。

 事前予約すれば久賀島で獲れたばかりの新鮮な魚介や野菜を使ったおいし料理がいただける。

 「囲炉裏端海鮮お昼ご飯」1,000円~

 現在は久賀島観光交流センターが休みの時に営業しています。

 ℡:0959-77-2131(久賀島やぶつばき会)携帯090-9598-1107(坂谷)


帰り

  帰りは田ノ浦港発8時のフェリーひさかで福江行きに乗る。フェリーは8時34分に到着。福江からは9時20分発九州商船のジェットフォイルに乗り長崎に向う。奈良尾を経由して11時10分に長崎に到着する。帰りも野母商船の太古丸を利用する場合、10時10分福江を発ち、途中、青方、小値賀、宇久を経て17時50分に博多に着く。


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